保坂和志『鉄の胡蝶は』読みました。
『カンバセイション・ピース』は、読んでいると世界観が変わるのがすごいところだと思っていて、それを一冊かけてじっくり読者の身体に仕込んでいく感じがしますが、『鉄の胡蝶は』は、毎章そこへ連れてってくれました。そのことをサインを貰う際に言ってみたら「話すように書いているからね」とのこと。大分前なので言い回しはうろ覚えですが……。
特に好きなのが「蝦蟇と話したあの頃」で、大事だなと思ったのが「渾沌は七日にして死なず」の章。
蝦蟇と話したあの頃
この本はどれも……というか小説などアート作品というものはそもそも、読んだり観たり聴いたりしないと読んだり観たり聴いたりしたことにはならないわけで、内容を別の言葉で説明してもジェットコースターの開始と終了で位置エネルギーを論じるような空虚さがあるわけなので読んでもらうとして、
蝦蟇と視点人物(ほぼ保坂和志)が歩いていて、青大将に出会したことがある、というのが前の章の終わりで、最初はそれに触れないのだけど途中で繋がります。蝦蟇は青大将に出会して身を竦ませたのだけど、視点人物と青大将のアイコンタクトによって青大将は道を通してくれた、という話で、それを受けて捕食者と非捕食者の関係の話をしているのがこの章。
この本ではSMを引き合いに出しているけど多分著者はSMを知らないし僕も知らないので印象で語ると失礼だなと思って人間に抗議できない青大将と蝦蟇の話だけするけど、青大将と蝦蟇は捕食者と非捕食者の関係にあるけど、その時青大将は蝦蟇と食べるのを止めた。食べなかったでもあるけど、食べるのを止めた。青大将は自分が捕食者だとか「青大将は蝦蟇を食べるものだ」とは思っていなくて、単に食べようとして食べるのを止めた。この種と個の違いについて色々話していて、人間にも、自分を「種」の側(比喩です、勿論)に自ら位置付けてしまう人がいて、寧ろそれは僕だよなあと思ってこの章が好きなのでした。
ディズニーの映画『私がビーバーになる時』も彷彿とさせるような話ですね。
渾沌は七日にして死なず
タイトルは、『荘子』に、渾沌に穴を空けて行ったら七日で死んだ話があるらしく、その捩り。
この章は今の僕にとって大事だなと直感しました。
保坂和志は神とか形而上の存在を語らせたらすごい面白い。のだけどいわゆる論理的じゃない話し方をするので言葉にならず、抜き書きした箇所を引用しておこうと思います。
神という概念が人間の心を作り出した
「それがロック以外の何物でもないとしたらそれはロックではない」 「ジャズとはジャズを否定する運動のことだ」 「この人は「小説とはこういうものだ」と思っている小説を書いただけだ」
専門家以外誰も肖像画を記憶していない北条泰時は権力というのか機能というのか、肖像が知られていないゆえにそれらがそれらとして記憶される、源頼朝は肖像画がよく知られているために、それが本人であろうがなかろうが、肖像画を憶えている他は鎌倉幕府を開いたことぐらいしか知られてない
アラーの使者のあの、一対の、白いブーツが地面に力なくバラバラに横たわったところ、まぼろし探偵がむしろに包まれて川に投げ込まれたところ、それに胸がざわつくと書けば勝手に次にサディストという言葉を喚び寄せる、もともとその嗜好があったから渾沌が穴をうがたれて死ぬという話に反応したのだと、話はいよいよ全然見当違いの方に行く。
こうして実際に自分の手でタイピングしてみると多少なりと思うことがある。
人の理解を支配しようという「論理的」な言葉に対する違った見方について、僕は反応しているのかな、と思う。
どうだろう。
この二つの章は栞も挟んでおいたので、また時間が経ってから再読したい。
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